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Vol.53 「神童」くんの存在意義
  神童とか天才というレッテルは、眉唾物だと疑ってかかるのだが、この人だ
 けは認めたい。
 米国在住のバイオリニスト五嶋みどりの弟で、自身もすでに奏者である五嶋
 龍くん。龍くんはすでにハーバード大学へ進学した大学生でもあり、「くん」
 付けもどうかと思うけれども、フジテレビで龍くんが6歳から16歳までに渡る
 ドキュメンタリーを毎年夏に放映していたせいもあり、彼が子供の頃を見慣
 れた視聴者(私もその一人)は、きっと幾つになっても彼を「龍くん」と呼
 ぶだろう。

 最も記憶に残る場面がある。
 龍くんが13歳の時、2001年にニューヨークの大晩餐会で演奏することになっ
 た。コンサートではなく、皆が飲み食いする場所に、普通このクラスの一流
 奏者は出てこない。せめて食事が始まる前に演奏するはずだったのに、手違
 いで、思い切り歓談タイムに龍くんは演奏するハメに。
 しゃべり声、食器の音が轟音のように鳴り響く。その中で小さな龍くんが、
 必死に奏でるバイオリンは無惨にかき消されていた。龍くんは、会場を出る
 時、扉かいすかを蹴っていたそうだ。あんまりだ、失礼じゃないか、と。
 しかしである。翌日、カメラの前で昨晩の事について聞かれて。
 「なんともないですよ。僕と同じだなって思った。だって食べることと聴く
 ことだったら、食べることの方を優先するでしょ。目の前に食べ物があった
 ら、聴くことなんてどうでもよくなっちゃう。僕もそうですから。だから、
 みんな僕と同じなんだって分かって、かえってうれしかった」
 13歳の子供が恨み言を漏らすでもなく、にこにこと、こう言ってのけるのだ。

 どうして、誰が見ても失礼極まりない待遇を受けてなお、その体験を越えた
 視点で物事を捉えることができるのか。この子は。
 おそらくこうだ。彼は愛を受けて育てられてきた人だから。
 母親の厳しいバイオリン教育、アメリカ社会での差別や虐めに耐えてきたこ
 とを、ドキュメンタリーは描いていた。
 でもなにより全編から伝わってきたのは、五嶋家はものすごくストレートに、
 愛情を表現する家だということ。うまく弾けないと蹴られたり、殴られたり
 は当たり前だったそうだが、でも「ママはあなたが大事だから」「ぼくはマ
 マがスキだから」とこんなメッセージが映像では飛び交っていた。

 そんなのアメリカの、才能に恵まれた金持ちの坊ちゃんだからありうる訳で
 あって、という声も聞こえてきそうだ。
 「超・格差社会アメリカの真実」(小林由美著、日経BP社)によると、ア
 メリカではいわゆる中産階級はほとんど姿を消し、「特権階級」(純資産120
 億円)と「プロフェッショナル階級」(純資産12億円以上、または純資産2億
 4000万以上で年収2400万円以上)と、「貧困層」「落ちこぼれ」にくっきり
 分離されつつあるという。
 日本でも、規制緩和で経済構造が質的に変わるニューエコノミーが90年代後
 半以降に広がり、稼げる仕事と稼げない仕事がはっきりと分離しつつある。
 五嶋家のような、前述の「プロフェッショナル階級」に属していなければ、
 お金のかかるバイオリン教育など、米国でもきわめて難しいのは現実だろう。
 日本でもそれは同じことがいえる。
 貧困は人の気持ちをささくれ立たせる。貧困家庭の児童虐待のニュースが増
 えた感のある昨今、そのような社会の底辺に落ちることの恐怖感に、私たち
 はおびえている。かたや医師の息子が自宅を放火する事件などが起きれば、
 金さえあれば、教育さえあれば、子供は育つという訳ではないとも思い知ら
 される。

 豊かな家庭で、私立の学校に通って、才能にも恵まれて。そんな龍くんの環
 境が、寛大な思いやりにあふれた子供に彼をしたのでは。
 わたしもかつては、そう思っていた。でも龍くんのドキュメンタリーの、あ
 の場面をみて、その考えは捨てた。人の心を素直にさせるのは、経済状態
 じゃない。愛の交換がある環境に置かれているかどうかに尽きるのではない
 かと。

 そう考えれば、あの神童ドキュメンタリーは意義がある。「美しい人間のあ
 り方」を知ることで、美しくない人間に、何が人を美しく存在させるのかを
 考えるきっかけを与えてくれるのだ。
 格差社会の話を読むと、アメリカって怖いなと思うのだが、龍くんやみどり
 さんは、コンサートになど行けないであろう貧困地区の小学校や病院、老人
 ホームを訪ねてボランティアで演奏をしている。そういったボランティア活
 動が音楽家に染みついている点は、アメリカってすばらしいなと思う。
 生の彼らの姿から、聴衆は音楽のみならず「美しい人間のあり方」を感じ取
 るのだろう。神様に愛された存在には、それ相応の役割がある。

 そんな自覚も、自然に身につけるのが神童くんなのだろうな。


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